一般社団法人下関ゴルフ倶楽部

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下関ゴルフ倶楽部の10年史である「下関の10年」(昭和42年12月刊行)は今では当時を知る貴重な資料となっている為、再編し掲載いたします。

下関の10年表紙

ごあいさつ

 昭和31年7月22日9ホールで発足しました当倶楽部が輝しい10周年を迎える事になり、昨秋11月記念式典を行いますと共に、下関ゴルフ倶楽部10年史を編集発刊の運びとなりました事は皆様と共に心から喜ばしく存じます。

 顧みまするに、開場当時は9ホールの未完成のコースでありましたが、その後拡張の為の土地折衡、或はシーサイド特有の旱魃との斗い等、幾多の試練はありましたが、会員の皆様をはじめ、従業員の深い理解と御協力によりまして、現在のコースの完成を見た次第で御座います。

 今後も八ヶ浜コースが、品位と比類の無い誇りを維持する為に、一層の努力を傾注する所存で御座いますので、皆様に於かれてもよろしく御協力をお願い申し上げる次第で御座います。

 最後に本書発刊に際し、資料の御提供並びに編集に対し御協力下さいました事を厚く御礼申し上げ挨拶と致します。

昭和42年初秋

下関ゴルフ倶楽部理事長 中部 利三郎

序 章

八ヶ浜というところ

 黒井村駅のある高台のあたりから、西の方一帯は、一面の海だったという大昔のことは、今更たづぬべくもないが、郷土の資料を見ゆる限りでは、いまから千年も前から豊かな土地が盛り上がって、この浜は今の海岸線あたり迄、緑に覆われていて”森の白浜”と呼ばれていたと聞けば当時の姿もなんとく浮かび出てくるようだ。

 その頃あたりを領有していた黒井氏の居城は青山城と名づけられていたそうである。尚この浜の又の名を、谷が浜と書かれていることを見ても、台地のところに深い入江が、喰い込んでいたであろう頃のことも偲ばれて来る。今こそ松一色の白浜であるがその頃のこの入江は、絶好の船着き場でもあったようだ。室津湾に抱かれ、響灘を隔てて、大陸と直接に向い合ったこの地は無呂の港と呼ばれ、大陸との交通に、重要な役目を果たした要地でもあった。

 北部九州が戦場となった文永の役の後、建治元(1275)年4月15日、国書を携えた元使杜世忠の一行45名はこの浜に上陸し、杜世忠以下5名は鎌倉へ送られ処刑された。残り40名はこの浜へと止められ斬首された。その首を掛けた“首掛の松”が何代目か分からないが、明治の初め迄は、この浜に残っていたそうであるし、その屍を埋葬した四十塚は今も一番グリーンの後ろにその名を留めている。

 弘安四(1281)年に元主忽比烈(フビライ)は、元使が斬首されたことに激怒して東路軍船団の一部900隻が分かれてこの浜へ上陸し、時の青山城主はこれを迎えて、この海辺で激闘したとの史実がある。今の1番ホールの中程の“防塁の跡”は恐らく当時の名残りであろうか。

 時は代わり松も古びて、この浜の模様も一段と閑けさをまして来たが、“森の白浜”の名は広く知られ、沢山の文人墨客を、その後この浜へ引きつけたようだ。明治の論客横山健堂は、特にこの浜を愛して、“月の松原”の名をつけて、天下にこれを紹介している。

第一章

 クラブの前史時代  1952(昭和27)年~1954(昭和29)年

下関の10年石堂山(昭和27年) 下関ゴルフ倶楽部が川棚温泉ゴルフ倶楽部といわれていた頃、現在の八ヶ浜から北東へ3km離れた石堂山の山麓に3ホールのコースがあり、造成工事中であった。

 しかしこの場所では18ホールにするには土地がなかった、また造成中の4番と5番ホールには竹が生い茂っていた。

 そこでコース設計を上田治氏に依頼した。この時のやり取りは、「下関の10年の座談会」に興味深い話が掲載されています。

 石堂山に上田先生をご案内する前に、陸地測量部の二万五千分の一の地図を広げましたところ、ここですが。といわれたのが八ヶ浜なんです。そこでいやここですといったら、ハーこんなところですかと云われて、ご案内しましたところ、先生はかぶりを振って、見向きもされなかったわけです。二回目におみえなったときには、石切り山になっている石堂山ではだめだ、ぜひ八ヶ浜というところを見たいといわれ、たまたま私が地形を知っておりましたので、砂っ原ですよ、といったところ、それがいいんだ、ぜひ行ってみたいといわれるので、ご案内したのです。それが八ヶ浜に切り替ったきっかけになったわけです。

 そのときのことで思い出があるのはいまの9番のティーショットのところですが、あそこに稲荷ずしとビールを持って行ってむしろを敷いて、この辺にクラブハウスを作ろうといって、一ぱいやろうとしていたところ、土地の人がきて、ここで食べなさんな、うちの婆さんがお茶をわかしているからうちで食べなさい。いままでそこで物を食べて満足に食べ終わった人は一人もいない。悪いことはいわんからうちで食べなさいというんですね。なぜかと聞いたら、ここはキツネがいっぱいいるというんです。
それでも僕らは食べたんですよ。なーともない。みんな食べたんですよ(笑い)あとで行ってみたら、あそこティーグランドのちょっと下のがけになっているところに、こんな穴が四つ五つありました。見て驚いたですよ。

 そういうことで今の八ヶ浜に移るということになっていよいよ土地の交渉がはじまったのが昭和28(1953)年3月、土地の問題解決に1年2ヶ月かかったわけです。

 当時の面白い話はいろいろあるけれど、その中の一つに14番の横にお寺があるんですが、説得する為あそこに4、5回村の有志を呼んで一緒に飲んだんです。1斗ぐらい酒を持って行って、話をするけれど一向にわかってもらえない。そこで戸別訪問をやったんです。
下関の10年座談会どうして反対するのか、いろいろ聞いてわかったのですが、この村は1400年の伝統をもっている由緒ある立派な村である、元寇の時の古戦場でもある。こういう立派な村にゴルフ場を作ったら、けがれるというんです。これには驚いたんですよ。僕らはゴルフ場を作ることによって村の名が浮かび上がって名誉になると思っていたら、とんでもない、向こうはゴルフ場を作ったらけがれるというんです。

どうしてもわかってもらえんから一ぺんゴルフを見せようということになり、約35名をバスに乗せて、門司ゴルフ場に連れて行くことにしました。6、7ホール回ってから、15番のティーショットの小高いところにみんなを集めて、大体おわかりになったでしょう。
ゴルフというのは、西洋から来たスポーツではあるが、日本の禅に通じなかったら、このスポーツは完成しない。自分でプレイして自分で審判するのだからということを話したのです。
そうしたらみんな帽子をとって、誠に申し訳けありませんでした。こういう立派なスポーツとは知らなかった。我々ももろ膚ぬいで協力しますから、どうぞやって下さいということになったんです。

 そして昭和29(1954)年10月に中部利三郎氏に理事長出馬要請の承諾を得る、同年12月に仮開場式を挙行するが、バラックの仮クラブハウスとグリーンとティーグランドだけ芝生が張ってあり、フェアーウェイは野芝が点々とあるというような状態であった。

第二章

 9ホール時代 1955(昭和30年)~1960(昭和35年)

下関の10年9ホール時代(昭和30年~35年)下関の10年9ホール時代(昭和30年~35年)中部利三郎氏が昭和30年9月に理事長就任、引き続き座談会より

 そして昭和30年の10月にはコースを全面的に改造するということで中部さんが上田さんと相談してすぐに手をつけられ、4カ月で工事が完了しました。大きな違いは、ティーグランドとグリーンだけにあった高麗芝を、全面に張られたこと。まん中にあったサービス道路を全部つぶされたことです。

 翌年の7月に9ホールの開場式がありました、その後間もなく高松宮さまがおいでになったときには、宮様がおいでになるというので村の人が喜んでくれて、室津、涌田、八ケ浜から小旗を作ってみんな集まってきて、お帰りになるときには、万歳をしてお送りしたりして、はじめのときは大変な人気でした。その後はしょっちゅうお見えになるので、そんなこともありませんでしたが。

 折角コースができたのだから、よそとも仲よくしながら技術を磨こう。それには同じシーサイドコースの古賀がよかろうということになりまして昭和32年の4月に下関で親善競技をやりました。その後つづいていますが古賀とが一番因縁が深いです、お互い9ホールのときからやっていますから。

このクラブができあがってからすぐに取りかかったのが社団法人の許可申請です。そのとき山口カントリークラブも一緒に申請しました。はじめ山口県では、ゴルフ場は社団法人にしてはいかんのだというし、文部省にもお伺いを立ててもいけないということでありましたが、全国的にいろいろ照会して調べましたところ全国で23府県が社団法人の許可を受けているということがわかったわけです。それでその資料を持って県と二年がかりで談判しました。それで、文部省はいかんというけれど、これは県知事への委任事項だというので県もしぶしぶ許可したわけです。これには中部さんや山口カントリークラブの蔭山さんなどの陰の力が大きかったのはもちろんです。昭和32年8月に許可証がきまして、同年10月に登記を完了し現在に至っております。

  • 下関の10年(昭和31年)
  • 下関の10年(昭和31年)
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  • 下関の10年(昭和31年)

    下関の10年(昭和31年)

それから入場者も年と共に多くなって、いよいよ昭和33年4月、このときの理事会で、18ホールに拡張するということを、その理事会で決定したわけですが、これはもちろん入場者もふえてきましたし、中部さんが折角なら18ホールにして満足するようにしてやりたいということで、一応理事会にはかり、理事会も中部さんがそういう意見ならばというので賛成したわけです。そこで拡張に伴う交渉をやれということになったのが翌月でこの交渉に10カ月かかりました。当時の理事の方々に、夫々ご苦労願いまして泉さんや中部新次郎(後の太洋球団オーナー)さんも土地の交渉のために八ヶ浜の皆さんに会っていただいて、晩の二時頃まで話し合われたことも何回かあります。そういうお骨折りがあって、昭和34年の3月に土地の交渉は解決、芝張りなどの関係で着工時期としてはちょっと遅いのですが、大林組を待たせておいて、直ちに着工したわけです。

 話は元に戻りますが9ホールの初めに、豊浦町があの浜にキャンプ場を作って天幕を張り、舟を20隻浮かべお客さんを呼んでおったのを、クラブが買収したわけです。当時のお金で確か3万円でした。

下関の10年18ホール工事(昭和34年)下関の10年18ホール工事(昭和34年)下関の10年18ホール工事(昭和34年)18ホールの工事着手が昭和34年の4月で、その年の6月には中部一次郎さんが日本アマの選手権に優勝されました。
そこでお祝いがありましたが、まだ18ホールの工事中のことで、このことは、クラブの歴史にも残ると思います。中部一次郎さんはその頃このクラブがまだK・G・U(関西ゴルフ連盟)のインタークラブに出ていませんでしたから、門司からの要請もあって、門司から出ておられます。そしていよいよその年の10月には拡張工事と新ハウスが完工しました。中部さんとしてはハウスは別にしても拡張した部分は一年ぐらい使わないで置いた方が芝もよくなるし、状態もよくなるからというお気持ちがあったようですが、会員としては折角できたのなら使わせてもらいたいというので、それでは仮オープンということにしてその11月から使いはじめたわけです。

 新ハウスの電気の引き込みでむずかしい問題がありましたね。中部さんは、コースの上には絶対電線を通してはいかん。上を通すぐらいならクラブハウスは真っ暗でもいい。地下を通すならいいがといっておられましたから。

 7番のところはコースの下を通していますね、お陰で当クラブのコースは電線がなくていいですね。たいていのコースは電線を潜っていますね。非常に感じが悪い。電線に当たりますからね。当てようたって当たるもんじゃないけど・・・・・。

 昭和35年になりますと中部銀次郎さんが9月に第2回の世界アマでアメリカに出かけられるわけです。これが中部銀次郎さんとしては、はじめての公式海外遠征です。そして10月に18ホールの会員の正開場式をやりまして、このときはじめて公式に高松宮両殿下がおみえになりました。これからが現在の18ホールの公式の開場ということになるのではないかと思います。

  • 下関の10年旧倶楽部ハウス(昭和34年)
  • 下関の10年(昭和35年)
  • 下関の10年(昭和35年)

補足: 9ホール時代のクラブハウスは現在の9番ティーグランドの後方、駐車場は7番の中央付近ありました。
18ホールにする為、1→9番、2→10番、3→11番、4→12番、5→13番、6→14番、7→17番、8→1番、9→5番の改修。
2番、3番、4番、6番、7番、8番、15番、16番、18番を造成しています。
昭和35年(1960)年当時

第三章

 18ホール時代 1960(昭和35年)~

下関の10年(昭和35年) 昭和36(1961)年の4月にキャディさんの寮の若葉寮が完成しました。同じときに新しい道路が完成して、理事長の車に最初に通っていただきました。同年11月には細石プロが日本オープンに優勝するという、たいした事件がおこったわけです。あのときは鷹之台で暗ヤミのプレイオフといわれた試合ですね。トラックのライトをつけてやったんでしょう。

 そうですね。中部一次郎さんが昭和34(1959)年日本アマに優勝されて、昭和36年に細石君が全日本のオープンに優勝したということで、二つのタイトルを同じクラブで持っているのはほとんどないと評判をとった年です。そのお祝いをここ下関市水産会館でやったのですが、何かご記憶はありませんか。藤井武人さんが泣いて祝辞を述べましたね。

九州から出てジャパンオープンをとったのですからね。運もよかったし、張り切ってやりましたからね。それでクラブとしては名前も上がったし・・・・・。
細石君はいつごろ来たのですか。9ホールの建設当時、藤井さんのころ来ています。藤井さんのときだったんですか。私の記憶では、中部さんが引受けることが決まってから、中部さんが門司に頼んで、だれか一人よこせということになって、細石君と他に二人いて、どっちでもいいといったら、他の二人の方がうまかったけど、細石君は大器晩成型で、人間がいいからあれがいいだろうというので、それではそれでいいわ、といってきたように思うんです。昭和29(1954)年の10月に中部さんが引受けられることが決まって、そのあとですから翌月の11月ですね。細石君は16、17歳でしたね。先般の十周年式のときにも、安川さんがおっしゃいましたね。中部さんは立派なコースを作られ、プロの育成、アマの向上の功績についても素晴らしい業績を残されたと称えておられましたね。昭和37(1962)年になりますと9つあった専門委員を6つに整理しました。4月には従業員社宅を建てていただいて、安心しては働けるようにして頂きました。そして同じ4月から宇部との親善ゴルフをはじめました。これは向うから話もありまして、お隣だからやろうじゃないかということで、はじめたものです。
7月には中部銀次郎さんがとうとう日本のアマ選手権で優勝されました。これが銀次郎さんとしては第一回目の優勝であります。引き続いてその年川奈でありました世界アマの第三回の競技に日本の代表として、石本キャプテンと一緒にでられて、すっかり世界的なプレイヤーとしてスタートをされたわけです。昭和39(1964)年 12月に6番のコース延長に取りかかりました。あれは元パー4でしたが、中部さんとしては、前からパー72のコースにしたいということで、アウトはどこをやるのかということになり、いろいろ話がありましたが、結局6番を延長することがいいというので、ティーを後ろに下げて、グリーンを前の山に突っ込んだわけです。これでアウトだけはパー36のコースになりました。
下関の10年(昭和30年代後半)同時にインの方も36にしたいということで、土地の交渉をやったのですが、これは残念ですが現在迄ものになりませんでした。12番を延長するのは割合楽なんですが、この方は中部さんがローテーションの問題で10番から5・4・5となるので、あそこを5というホールを出したくないといわれます。今の14番を延長することにすると、畑がありまして、大きい松の木もあるし、なかなかできないんです。

 そういうことで昭和40(1965)年の7月に6番ホールを使用しはじめてパー71になりました。
前年の干ばつに遭いまして芝を大分やきました。皆さまにプレイ上も財政的にも負担をかけたということは、誠に申し訳ないことです。その結果潅水設備も立派にやっていただきましたので、今後はああいう心配もなくなりました。ああいうことが再びないようにコース委員長も心配されているし、我々も心配しているので・・・・(笑い)。
しかしここは客土が薄いんだから、すぐなる心配はある。今後ないといったって。それはまあ努力でカバーするとこにして・・・・(笑い)。この間コースから帰るときに、自動車の中で雨がザーッと降ってきたら、あんたは、目を覚まして喜んでいるし、近づいて雨がなくなると、また悲観しているし・・・・(笑い)。
その年の11月には、門司クラブとの親善競技をはじめました。これは多年の友誼からいって是非やりたいというという申入れもありましてはじめたものですが、その後、年1回ずつ続けております。従って今日親善競技をやっているのは、古賀と宇部と門司の3クラブになりました、相手が多いので忙しいが、その代わりに親善の実をあげてやっていくことができるのは結構だと思います。昭和41(1966)年になりますといよいよ昭和31(1956)年に開場式をやってから10年経過したということで、10周年の記念の競技をやろうということになりました。先ず3月に10周年記念家族競技をやりました。350人会員とその家族がお見えになりまして大変なにぎわいで、理事長も大変お喜びになって、みんながこんなに喜ぶなら、もう1回やろうとおっしゃって、臨時の家族競技を8月にやりました。
こういうように、クラブを中心にした集まりが盛んになってきたのは全く結構だと思います。

  • 細石憲二氏日本オープンプレーオフ
  • 細石憲二氏日本オープンプレーオフ
  • 細石憲二氏日本オープン

補足: インは12番を延長し、13番と14番は移設して今ではイン36のトータル72となっています。

終 章

 将来への期待  昭和42(1967)年6月1日当時

最近ビギナーが方々のクラブでもふえていますが、自然エチケットが乱れてきています。
会員の皆さんもよく気をつけてもらって、エチケットを遵守してもらう、そうしてビジターの人が来られても、気持のいいゴルフ場だといわれるようにしたい。クラブの会員だけではなく、従業員の皆さんにもエチケットを守ってもらって、すっきりした気持ちのいいゴルフ場にしてもらいたい。そして名実ともに品位のある模範ゴルフクラブにしてもらいたい。これが私の念願です。

 私もただいまのキャプテンのご意見と同様でありますが、10年という年輪を重ねていることでもありますし、今後一層あらゆる面において風格を高めていきたいと思います。そのためには我々会員が自覚して、マナー、エチケットの向上に努めなければならないと思います。別に将来に対する意見としてまとめてはありませんが、年にすくなくとも一度か二度は、日本的な競技を是非下関でやりたいと思います。そういう全国的な試合をやりますと自然会員なり、周辺すべてが向上すると思います。

 私はキャディ委員長として理事会で理事長がいつもおっしゃるように、常時出勤できるキャディを90名にしたい。それに近い数字を近々のうちにどうしてももってゆきたい。
そして下関クラブは実にキャディがいいというように今後指導してゆきたいと考えています。私はプレーヤーシップといいますか、プレーヤー同志がお互いに「お早よう」ぐらいのことは言った方がコースとしても気分がいいのではないかと思います。これは是非実行してもらいたいと思います。

 ハンディキャップ委員長の立場から申し上げますと、審査について皆さんのご批判もあるようですが、私としてはできるだけ下関のメンバーのハンディキャップは、実力のあるハンディキャップにしたいと思います。それから将来の機械化に備えて、当クラブとしては一つの強味をもっていると思います。それはフラットであるということです。将来になりますと人員も不足してくるでしょうし、機械を入れなければならないようになってくると思います。先般池田カントリークラブに行きましたが、そこに米国から輸入した電動カーがありまして、キャディさんが乗って、運転しているわけです。横にサービスバックをつけて、将来そうなった場合、よそのコースのようにアップ・ダウンの激しいところは大変だろうと思うんです。下関はその点有利な条件にあるのではないかと思っています。

 私もエチケット委員長をしておりました関係上、皆さんのお話にありますように、コースに風格と品位を持ちたいと思います。コースだけではなく、ゴルフもしかり、キャディも従業員もしかりです。これがそろわないとどれか一つでも欠けると不愉快になる。キャディもロッカー係もいいという第三者のことばを聞くと、わがことのように愉快になります。どうかより以上の努力をお願いします。それから東京、大阪あたり来られる人が川棚のコースを見てこいといわれて来たという方が、非常に多くあるのです。それでご案内するんですが、みなさんほめて下さいます。やはりそこには何かいいところがあるわけです。

 10年かかりまして立派な下関ゴルフ場ができておるわけですが、引き続きこの気風をよりよく育てるとともに、欲が深いかも知れませんが、メンバーの人にもビジターの人にも楽しく愉快なゴルフ場にしたいと思いますので皆さんよろしくお願いしたいと思います。

 もう一つエチケット、マナーという点からつけ加えておきますと、ゴルフ場に入りますとフィフティ・フィフティなんです。英国のような人間の貴賤の差が激しいところでもそうです。ゴルフ場に入れば社長も若い社員もないわけです。あとから入ってきた人は、先に入っている人に「お早よう」「今日は」というようなあいさつだけは交わしたいと思いますね。
私は努めてそうしています。あとからノソーッと来られるのはいけませんね。この点委員の方から皆さんに広げて下さい。あれはいいですね。私東京にいるとき毎朝散歩します。
5時ごろから歩くんですが、老人が多いです。道で会うとお互い全然知らない人でも「お早よう」とやるんです。それが下関を歩くと駄目なんだ。(笑い)これはどういうものでしょうかね。欧米では老若男女を問わずやっていますがね。古い人はみんなやりますけどね。
新しい人がどうも・・・・。それもゴルフが下手な間はあいさつするですよ。ところがその人が私たちより上手になったらものを言うてくれん。(笑い)そういうのが多いですよ(笑い)。
縁の下の力持ちでコースが芽生えたときから世話をしてもらっているグリーンキーパーに。グリーンキーパーとしてただいま皆様がおっしゃいました風格あるゴルフ場、名門のゴルフ場に恥じないコースにしたいと思っております。それには何をおいてもコースを整備しなくてはなりません。現在まだ完全とは申せませんので、今後一層各ホールとも手入を完全にし、皆様に愉快にプレイしていただけるように努力したいと思います。

 それではこれで座談会をおわります。皆さんご苦労さまでした。

下関の10年中部三兄弟

第56回
日本オープンゴルフ選手権競技

第56回日本オープン(平成3年10月)

第56回日本オープンゴルフ選手権競技 1991.10/10→10/13

第56回日本オープン(平成3年10月)終焉に向かいはじめたAON時代

 日本のプロゴルフ史上に、燦然と輝く黄金期があった。青木功、尾崎将司、中嶋常幸のビック3がツアーを席巻し続けた、後にAON時代と呼ばれるころのことである。

 1985年からはすべて、この3人の強者の手によって覇権の奪い合いがなされていた日本オープン。1991年に迎えた、下関ゴルフ倶楽部での初めての日本オープンの戦前予測も「3人のうちの誰が勝つのか」という一点のみに目が向けられていた。ところがこの年の戦いは、AON時代を語るものとは少し様相を異にするものとなった。

 初日トップに立ったのはAONのうちのいずれでもなかった。室田淳、草壁政治、海老原清治といった伏兵達がトップに立ち、AONの壁に挑んできた。初日首位のスコアは2アンダーであった。だか、初めて経験する響灘からの強い風、松林、そしてコーライグリーンの難しさに翻弄され、選手たちはここから先は我慢くらべの展開になっていくことを覚悟する。技術だけでは太刀打ちできない。パワー、そして精神力。どれかひとつ欠けていても4日間トップの座に君臨し続けることは不可能であると、誰もが感じていた。この時代、そのすべての要素を最も充実させていたのはやはり、AONであったはずだった。

第56回日本オープン(平成3年10月) 2日目、トップは室田が守るが、尾崎将司が2位に浮上してくる。そして3日目には後退した尾崎に代わり、中嶋がトップから1打差の4位に浮上する。3日目の首位は室田、そして前日に2位まで浮上していた牧野裕、当時無名の新人だった溝口英二の3人。首位のスコアはイーブンパーまで落ちる。AONは時折らしさを見せ、ようやく快進撃が始まるのかと思わせるものの、この時点で誰もトップに立つことはなかった。この時代の日本オープンでのこの事態は、誰もが想像できなかったことであろう。

 そして最終日。この日も風と松とコーライグリーンに翻弄され、スコアを大きく崩す選手が続出。とうとうアンダーパーは誰もいなくなる。そんな中、この日4オーバーでスタートした須貝昇が2アンダーでプレー。通算2オーバーのトップで、先にホールアウトをすませた。AONの中では最も上位にいた中島だったが、この日一時イーブンパーまでスコアを上げながら7番で痛恨のダブルパーを叩き、序盤一気に4オーバーまでスコアを落としていた。これでAONの日本オープン連勝は途切れたと誰もが感じた。しかし、この時代のAONの強さはやはり並みではなかった。そこから中嶋は連続バーディ、11番をボギーとするが土壇場の最終18番でバーディを奪いかえし、須貝とのプレーオフに持ち込んだのだった。そして勢いに勝る中嶋はプレーオフをわずか1ホールで制し、2度目の日本オープン2連覇を達成した。

  • 第56回日本オープン(平成3年10月)
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  • 第56回日本オープン(平成3年10月)
  • 第56回日本オープン(平成3年10月)

その後、翌年は、尾崎が日本オープン4度目の優勝を飾る。そして、これを最後にAONによる連勝は途切れることとなった。
下関ゴルフ倶楽部で行われた1991年の日本オープンを境に、もしかするとAON時代は、終焉に向かいはじめていたのではないだろうか。そう考えれば下関ゴルフ倶楽部は、プロゴルフ界の歴史のとても大きな折り返しをひとつ演出したことになる。

 それにはもう一つの理由がある。
その数年後、AON時代とはもはや呼ばれることがなくなった後の日本ゴルフ界を支えた丸 山茂樹。当時日大の学生であった丸山は、この日本オープンでベストアマを獲得。トッププロへの第一歩を踏み出していた。

~社団法人下関ゴルフ倶楽部50年史より~

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第67回
日本オープンゴルフ選手権競技

  • 第67回日本オープン(平成14年10月)
  • 第67回日本オープン(平成14年10月)

第67回日本オープンゴルフ選手権競技 2002.10/17→10/20

時代を象徴するサバイバル戦

第67回日本オープン(平成14年10月) AON(青木功・尾崎将司・中嶋常幸)の全盛が過ぎ、日本のプロゴルフ界は新たなスターの到来を待っていた。そしてその期待を担ってきた丸山茂樹、伊沢利光、片山晋吾らが90年代なかばより頭角をあらわし始める。しかし、彼等はAONのような絶対的な存在にはなれなかった。いくつかの理由が考えられるが、AONの時代にはなかったものが、彼等が一時代を築くことに“待った”をかけたこと。それがひとつと考えられる。

 アメリカツアーやヨーロッパツアーの出場権を持たない外国人勢。彼等が、その他のツアーの中で比較的賞金の高い日本へと、こぞって渡ってくるようになった。“より多く賞金を稼ぐため”“賞金王になって海外メジャーの出場権を得るため”というふうに、ツアーの参戦の目的が明確である彼等は、ハングリー精神という意味で日本人選手に勝っている部分が大きかったのか、国内ツアーで徐々に活躍を始めたのだった。

第67回日本オープン(平成14年10月) 初開催から11年の月日が流れ、下関ゴルフ倶楽部に再び日本オープンの舞台が廻ってきた。2002年の日本オープンは、そんな時代を象徴するトーナメントとなった。全長距離が91年大会より40ヤードほど短くなり、1番、12番がパー4として使われ18ホールをパー70で開催。戦前から「本命不在」といわれたこの大会は91年のときとははっきり様相が異なり、何人もの選手が拮抗する混戦となる。まさにサバイバルマッチであった。

 ボギーなしの62。佐藤信人による、日本オープン史上最小ストローク新記録の樹立という、華々しい幕開けとなった大会初日。91年のときの優勝スコアがオーバーパーであったことで“難コース”の呼び名が高かった下関ゴルフ倶楽部だけに、いくらコンディションがよかったとはいえ、この予想外のミラクルなスコアは、見守るファン、そしてライバル達の度肝を抜いた。しかし2日目からは“難コース”が本領を発揮。佐藤は2日目も一打差でトップを守るものの、1オーバーのプレーがやっととなった。

 3日目は、雨に見舞われる。佐藤はついにトップの座を明け渡すことになった。代わって3日目にトップへと浮上してきたのは、ニュージーランドからやってきたデヴィッド・スメイル。そして韓国の金鍾徳という二人の外国人選手だった。日本で活躍する外国人勢ゴルファーには、ある一貫した特徴がある。アメリカ、ヨーロッパなどの難コースを経験していたり、アジアサーキットなどの悪条件のゴルフ場でのプレーに慣れていたりするからだろうか。彼等は徹底してステディなゴルフを展開するのだ。プレーに華はなく、見ている側からすれば面白みに欠けるゴルフだともいえるが、彼等はサバイバル戦になると、必ず上位に顔を出してくる。そしてこの日本オープンも、そこからは彼等にとってうってつけの状況となった。

  • 第67回日本オープン(平成14年10月)
  • 第67回日本オープン(平成14年10月)

海風と松林、コーライグリーンに加え、雨にも見舞われるという状況は最終日も引き継がれた。そしてサバイバルマッチの展開は変わらず、ステディなスタイルを貫くスメイルと金の2人がやはり生き残る。終始、両者によるマッチレース。息を呑む戦いが続き、“集中力”を切らしたほうが負ける“ということは、誰の目にも明らかであった。

 勝負の分かれ目は、金と2打差のトップで迎えた15番。20メートルのロングパットを寄せに行ったスメイルがそのままカップインさせ、バーディで均等を破る。勝敗はここで決した。そして、日本初優勝をメジャーで飾ったスメイルは、外国人ゴルファーにとって非常に価値のある10年シードを獲得したのだった。

第67回日本オープン(平成14年10月) 雨が加わったことでより牙をむくことになった、難攻不落の下関ゴルフ倶楽部。それに打ち勝ったのは、スーパーショットの応酬でもなく、ミラクルパットの連続でもなかった。

4日間貫きとおした己のスタイル。デビット・スメイルのその姿には確かに一辺の揺るぎもなかった。

~社団法人下関ゴルフ倶楽部50年史より~

  • 第67回日本オープン(平成14年10月)
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